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VINCENT ~勝利者~ 9 [VINCENT]

1886年 一月

 無料の美術学校へ入学したフィンセントだったが、学校の教師は、フィンセントの絵を「腐った犬のような絵だ」と評し理解を示さなかった。

 フィンセントは、こんな言葉を残す。「僕は、犬の様に生きる事を選択した。だから犬で有り続けよう。そして絵を描き続ける。自然の胸深い所に向かって。そんな人間であり続けたい。」

 テオは、パリに来る事を薦め僅か三ヶ月でアントワープを旅立ち1886年 二月 テオの居るパリに向かった。
 一緒に暮らし、生活費を抑える為と画家コルモンのアトリエに入って絵画の基礎を学ぶ理由もあった。しかし、四ヶ月でコルモンのアトリエを去る。ここでもコルモン氏や他の生徒達の意見を、全く聞こうとしなかったので居づらくなったのだ。

 この時期に自画像を描き始める。十分なモデル代のお金が無いのも理由だが、テオにモデルを頼む事はしなかった。テオは病弱な体質で、この頃重い病気に襲われていた。命は助かったが、当時の心境を妹だけに打ち明けていた。
「今だから言えるけど、この冬は三十歳の誕生日も迎える事が出来ないと思っていたよ。この事は、誰も知らないし、その方がいい。家族を心配させるだけだからね。君も誰にも言わないで居てくれ。今は、もうすっかり回復したし、産まれてこの方こんなに元気に成った事など無いと言う位元気だ。」
 二人の住む街は、印象派の溜まり場だった。ピガール広場の「ヌヴェル・アテーヌ」や有名なタンギー爺さんの画材屋も有った。

 タンギー爺さんは、当時六十歳を過ぎていて、以前アナーキストとして投獄されたが、パリ・コミューンの後に釈放された経歴を持っている人だった。印象派の作品や日本の浮世絵など数多く店に置き、気に入った画家にはただ同然で絵の具やカンヴァスを与えていた。フィンセントは、この店で浮世絵を見て日本に興味を示していた。タンギー爺さんは、フィンセントを直ぐに気に入りモデルも勤めフィンセントは、スケッチと肖像画を描いた。肖像画ではタンギー爺さんの背景に浮世絵を描いている。

 ある日、テオからポール・ゴーギャンを紹介された。ゴーギャンはフィンセントより五歳年下で、三年前に恵まれた職場と家庭を捨て三十五歳で画家の道に転じていた。共に日本の版画に興味を持っていたのもあり、直ぐに仲良くなった。
 この頃、テオに結婚の話があり弟に迷惑を掛けると思ったフィンセントは、日本への憧れも強くパリを出て浮世絵にも有るような明るい光を求めてアルルへと旅立つ。

タグ:ゴッホ
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